「本と目が合う」もしくは「本に呼ばれる」ということ

本を読むのが好きだ。そして、本屋に行くのも好きだ。

 

今は絶賛引きこもり中なので前ほど出掛けないが、それでも時々はぷらぷらと本屋に行く。普段から、新聞や雑誌の書評に出ていたもので興味のある本は、手帳に書いてある。

 

こういう生活だとAmazonで買ったほうが確実で便利なのだろうけど、配達の人が家に来るのがもうすでに鬱陶しい気分なので、自分で出掛けるほうがいい。

 

そうやって本屋をぷらぷら歩いて、本を買ったり買わなかったり、まあ大抵は何かしら買って帰ってくる。小説だったり、料理本だったり、新書だったり、雑誌だったり。持ち帰ってそれなりに楽しく読むのだが、何度も読み返す本は少ない。

 

自分の来し方を振り返ると、何度も繰り返し繰り返し読む本や心を掴まれてしまう本なんていうのは、一時代に一冊くらいのものなんだろうと思う。そして面白いことに、そういう本との出会いは大抵偶然である。

 

たまたま入った本屋で、たまたま目を向けたところにあった一冊の本に、なんとなく気を引かれて手に取る。初めて見る名前の作者で、よくわからないけれどちょっといい予感がする。それはもう、その本と「目が合い」、その本に「呼ばれた」としか言いようのない出会いである。

 

20代の私にとってのそんな本は、本間千枝子の『アメリカの食卓』であり、30代は藤沢周平であり、40代は内田樹である。どの本も、本屋で私においでおいでと手招きしていて、私はなぜだかわからないまますーっと呼び寄せられて今日に至る。

 

 

アメリカの食卓』は、研究者である夫とともに7年にわたる滞米生活を経験した筆者の「食卓を通じて初めてみえた、もうひとつのアメリカ文化論」である。

 

とにかく「専業主婦になる」ということを至上命題としていた私にとって、主婦が主婦の目線でもって外国の文化を語るというのは驚きであった。主婦でありつつ、こんな理知的な文章を書ける人がいるとは、なんと夢があることであろうと思ったのだ。

 

そして30代で藤沢周平を読んでほろほろと涙を流し、40代の内田樹で「今まで考えてもみなかったトピック」を「軽妙な言葉遣い」で「誠実に」語ってくれるおじさんが存在することに驚愕した。

 

三者三様なのだけど、共通するのは「語り口の心地よさ」なのだと思う。的確な言葉が気持ちよいリズムで連なっている。それを目で追って、心の中で反芻する気持ちの良さ。

 

だから、どうもこの頃調子が悪いと思うと、必ずこの3人の本に戻ることになる。とりあえず戻って、弱った自分をちょっと励ましたり慰めたりするのである。面白いことに、何度も読んだはずのそれらの本たちは、そのたびにまた少し違った顔をみせてくれるような気がする。

 

そりゃそうですよね、私だって日々歳をとっていくのだから。感じ方だって変わってくるし、響くところも違ってくるわけで。そして、最近いまひとつ調子のでない私は藤沢周平の「玄鳥」を読んではほろほろどころかぴーぴーと泣いている。

 

主人公「路」の胸によみがえる、幸せだった頃の「日の光、吹きすぎる風の匂い」は、こんな私の心の中にもある。今が不幸とは全然思わないけれど、過ぎた昔は妙に懐かしく、なんだか遠くに来てしまったような気分が抜けない。

 

もう少し泣いたら気を取り直して洗い物でもしようか。そんなふうに、何かあっても気持ちを落ち着かせてくれる「とりあえず、ここに戻れば安心安心」なお守りみたいな本たちに出合えたことを、たいそう有難く思う。